寄稿……杉原千畝は美濃で生まれた

          小椋洋生(高20) 

東京古城会の皆さん、第二次世界大戦中、ナチスに迫害された大勢のユダヤ人に「命のビザ」を発給して救いの手を差し伸べた外交官・杉原千畝のことはご存じですね。杉原千畝によって救われたユダヤ人は6,000人を超えると言われています。

この杉原千畝のビザ発給リストが、「杉原リスト―1940年、杉原千畝が避難民救済のため人道主義・博愛精神に基づき大量発給した日本通過ビザ発給の記録」としてユネスコの世界記憶遺産に登録されようとしています。

私が杉原千畝の名前を初めて聞いたのは昭和40年代の中頃のこと。遠いリトアニアの地で、戦火が激しくなる中、ひたすらビザに署名する外交官、岐阜県八百津町出身として紹介されていました。

故郷近縁の出身ということで親近感を持ちましたが、気になったのは彼の功績よりも「千畝」という名前でした。人名としては非常に珍しい。一方、地名としては、美濃町に「千畝町」があります。この偶然の一致に驚き、何か関係があるのではないかと思っていました。いろいろ調べていくと、杉原千畝は八百津町ではなく、美濃市で生まれたらしいという話が出てきました。これだと「千畝」という名前も納得できます。

千畝の生誕地については、昨年、千畝の四男(杉原伸生さん)が戸籍を持参して美濃市を訪問したことで決着しました。千畝の戸籍には出生地欄に「武儀郡上有知町八百九拾番戸」と記載があり、この地は、現在の「美濃市東市場町」の教泉寺にあたります。また、千畝の自筆自伝に「1900年(明治33年)1月1日に岐阜県武儀郡上有知町の一仏教寺内の借間にあった税務官吏の家に生まれた。」と書かれていて、これを裏付けています。

当時、教泉寺の隣には上有知税務署があり、千畝の父(杉原好水)が勤務していました。税務署は後に警察署になったので、皆さんもご記憶にあるかと思います。また、当時は、教泉寺の庭に立つと目の前に千畝町の田畑が広がっていました。

千畝の父(杉原好水)は、いまでいう転勤族ですね。名古屋税務局の職員録等をもとに千畝の足跡をたどると、現在の美濃市(0歳~2歳)、福井県越前町(3歳)、四日市(4歳~5歳)、中津川市(小1)、桑名市(小2)、その後若干の経緯を経て名古屋市の古渡尋常小学校(現平和小)、県立五中(現瑞陵高校)へと頻繁に移っています。

杉原千畝が美濃に住んでいたのは生れてから3歳くらいまでの頃です。だから、最近まで美濃市の人たち及び美濃の出身者で杉原千畝が美濃で生まれたということを知っている人は殆どいませんでした。現在でも美濃の「うだつの町並み」を紹介する際に杉原千畝の名前は出てきませんし、教泉寺には生誕地の表示もありません。しかし、今年の夏ころには「杉原リスト」が世界遺産に登録される可能性が高いので、多くの人が杉原千畝に関心をもつことと思います。

現在、美濃市の人たちが集まって、教泉寺の庭に杉原千畝の顕彰碑や案内板を建てようと計画しています。東京古城会もこの運動に応援し、美濃の地で杉原千畝が生まれたことを広めていきませんか。