仙厓禅師修行跡(横浜市の寶林寺)を訪ねる会開催 (2013年7月6日)
 2013年7月6日(土)、横浜市南区の寶林寺を訪ねる会が開催され、東京古城会会員8名と会員家族1名の9名が参加しました。仙厓和尚が美濃を離れて12年間修行した「東輝庵」は寶林寺に合併され、現在は記念碑が建っています。
 永田山寶林寺は横浜市南区永田北(保土ヶ谷駅から南へ約15分)の小高い丘の上にあり、山門をくぐり石段を上がった本堂の南側に「仙厓禅師修行跡の碑」がありました。全員で記念写真を撮った後、東輝庵の大宗師月船禅慧の墓に献花して参拝することができました。
 当日は梅雨明けの猛暑になりましたが、浜風が心地よく感じられ、楽しい有意義な見学会でした。案内下さった横浜在住の間瀬正子さん(高17)にはお世話になり、ありがとうございました。
寺名碑と寺門 仙厓禅師修行跡の【碑を建つるの記】 仙厓禅師修行跡碑での記念写真
【碑を建つるの記】の内容は拡大写真で読み取れますが、五行庵というブログに載っていましたので、リンクしておきます。
写真をクリックすると、拡大写真に切り替わります。

仙厓禅師略歴
1750(寛延3)年、仙厓和尚は美濃国(武儀郡谷口村、現在美濃市の大矢田?)にて農民の子として生まれました。
1760(宝歴10)年、美濃市殿町の清泰寺住職(10世空印円虚)の下に小僧として入門しました。仙厓義梵と命名されました。仙厓の学問に対する意欲と絵画に対する関心は、この空印と清泰寺という最初の師と環境によって育まれたとも言われています。
1768(明和5)年、仙厓19才で初めての行脚につき、武州永田山(現在の横浜市南区永田)の東輝庵の月船禅慧に参じました。月船と空印は禅門の最高峰と仰がれた薩摩の「古月禅材」の同門下です。東輝庵は学徳兼備の大宗師月船禅慧の威風を慕って、全国から大勢の修行僧が集まっていました。東輝庵での修行において、四天王の一人と言われるまでになりました。
1781(天明元)年、月船の没後、諸国を行脚し、一時は郷里の美濃に帰って清泰寺住職に推挙されましたが、貧しい農民の子であるとの理由で武家の壇家総代の反対を受け、実現しませんでした。行脚の後再び東輝庵に戻りました。   「から傘を ひろげて見れば 天が下 たとへふるとも 蓑は 頼まじ」
1787(天明7)年、月船門下の兄弟子に西遊(博多・聖福寺)を勧められ、1789(寛政元)年、聖福寺123世住職に就任しました。仙厓39才でした。
聖福寺は1195年栄西が筑前国博多(現在の福岡市御供所町)に開いた日本で最初の禅寺で「安国山聖福寺」と言い、黒田家52万石の城下町で壇家も黒田藩の上士が多いことでも有名です。仙厓は住職以上の地位も名誉も望まず、博多の人々からは「仙厓さん」と親しまれ、面白い話や気軽な絵画の中に深い教訓を込めて、人を笑わせながら人間の行うべき道を説き示しました。
1837(天保3)年、88才で生涯を閉じました。
東輝庵は寶林寺に合併されて現在は無く、境内に碑が建立されており、その碑を見学します。(直接見学場所に来ても可能です)